マサです。
パキスタン航空南回り(1980年代)
1985年春。
大学へ休学届を出したぼくが生まれて初めて乗った航空機がパキスタン航空
マニラ経由カラチ行きでした。
アテネからさらにエルアル航空に乗り、
40時間かけて辿り着いた初めての海外の地が
イスラエル・テルアビブのベングリオン空港。
1年間オープンの南回り切符はカーボン複写の
ペラペラの航空券。なくしたらパーです。
翌年の帰国便をフランクフルト発と決めた以外は
帰国までのすべての予定が空白でした。
キブツ、そして1年の放浪へ
イスラエル・キブツでの4か月の生活後、
現地で出会った欧米のバックパッカーの情報だけを頼りに陸路エジプトへ向かい1か月。
キプロス、ロードス島から船でトルコへ。
トルコで思いがけず1か月過ごした後、
陸路でブルガリア~ユーゴスラビアを抜け
80年代の西ヨーロッパをヒッチハイクしながら
野宿もいとわずに、這うように放浪することになります。
- ユーゴスラビアはその後1991年に崩壊が始まり、紛争を繰り返した後にセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア共和国、スロベニア、モンテネグロ、コソボの7地域に分裂します。
- 当時は西ヨーロッパ・東ヨーロッパという明確な区別がありました。ベルリンの壁崩壊後にひとつのヨーロッパとして人や物の交流が自由化されました。
帰国しても旅が頭から離れない
このときの1年間の放浪話は別の機会に詳しくお話しましょう。
はじめての旅でそこそこディープな経験を積み、
すっかり旅の魅力にハマってしまったぼくは
その後もアルバイトで金を貯めては
ヨーロッパ再訪、ソビエト(いまのロシア)、
エジプト再訪、カナダでスキー、
アメリカ西海岸、メキシコ、アラスカ、
ドミニカ共和国、コスタリカなど
手当たり次第に旅を重ね、
80年代のうちに訪れた街は30か国150都市を超えていました。
どこからか話を聞きつけた旅行会社からも
新しい旅の企画会議に誘われたりして、
ぼくの提案したマニアックなルートが商品になったりもしました。
その旅行会社さんからは強力に就職のオファーを受けたのですが、
旅行を仕事にするまでにはもう少し遠回りすることになります。
少年時代(1970年代)
物心がついたころからぼくには放浪癖があったのだと思います。
おそらく少年時代夢中になって読んだ本が多大な影響を与えていて、
例えば
太平洋ひとりぼっち 堀江健一
トムソーヤの冒険 マーク・トゥエイン
十五少年漂流記 ジュール・ヴェルヌ
八十日間世界一周 ジュール・ヴェルヌ
海底二万里 ジュール・ヴェルヌ
ありがとうチモシー 作者不明
など・・・
冒険小説ばかりで笑えますが
無人島ものとか、ほんと好きだったなあ。
読み始めるとのめり込み方が半端なく、
主人公になりきったぼくは空想の中で
異国の街や南の無人島を冒険していました。
読者の方に小さいお子さんがおられたら
是非十五少年漂流記を買ってあげてください。おすすめです。
さらに冒険少年の熱いハートに燃料を投入し続けたのが
ぼくらのバイブル的存在だった
「冒険手帳」。
無人島での火の起こし方、
いかだの組み立て方、
時計なしに時刻や方位を知る方法、
捕らえた野鳥や野ウサギの調理法にいたるまで
いつか冒険に繰り出す日のために、
ボロボロになるまで読み返したものです。
なんと父がヨーロッパへ
小学校へ上がるか上がらないかの頃に、
父が仕事でヨーロッパへ行くことがありました。
海外旅行が自由化されて間もない、
1ドル360円の時代、
富裕層しか行くことのできなかったヨーロッパです。
今の価値に換算したらツアー料金が300万とか500万っていう
そんなヨーロッパへ父が行くなんて
我が家にとってはとんでもない事件だったわけです。
父の帰国日には当然、羽田空港へ家族全員で迎えに行きました。
その日羽田空港で見たJALの飛行機のなんと眩しかったこと
誇らしげに翼を広げた夢の乗り物の姿はあまりに美しく、
「いつかぼくもこのひこうきにのってとおい国へ行く」のだと固く決心していました。
帰国早々質問攻めにするぼくに父は、
お前たちが大人になる頃には、
好きなだけ外国へ行ける時代が来るぞ
と、優しく笑いながら繰り返していました。
まさか本当にそんな時代が来るなんて、
あの頃のぼくにはとても信じられなかったのですが。
ラジオにかじりついた日々
そうそう、
小学生の頃には短波放送の大ブームというのがありました。
FMでもAMでもない
短波という電波に乗った世界中の放送を
専用のラジオでキャッチして聞く、
それだけのことなのですが、
BBCから聞こえるビッグベンの音や、
ラジオ・オーストラリアから聞こえる
笑いカワセミの声を求めて
寝ることも忘れてラジオにかじりついていました。
その海外のラジオ局へ受信報告を郵送すると、忘れたころに
ベリカードという受信証明書が送られてくるのです。
世界中から、
見たことのない切手を貼った手紙がぼくあてに届くなんて、
小学生のぼくにとってこんな夢のような体験はほかにありません。
宛先だって横文字で書いてあるんです。当たり前ですけど。
夢中になって世界中の放送局のベリカードを集めるうちに、
ぼくの空想は際限なく膨れ上がり
この目で世界を見たい、という願望をさらに強めていきました。
その後中学・高校時代にはバスケに傾倒し、
盆正月以外はすべて練習という過酷な日々を過ごします。
体罰もあたりまえの時代で、
殺されるかと思うほど鍛えられたのですが、
この時培った体力が後になって大いに身を助けることとなります。
バスケのおかげで冒険願望はしばらくなりを潜めますが
大学へ入学すると再び、
どこかへ行きたい、自分の目で世界を確かめたい!
という強烈な思いを抑えきれなくなり、
ぼくの日本脱出計画が始まったのでした。
さてどこへ行くか
当時はオーストラリアと日本の間で
ワーキングホリデー制度が導入されたばかりで
長期滞在といえばオーストラリア、
海外志向の若者が一斉にオーストラリアを目指していました。
今はおよそ20か国に増えたワーホリ協定国も、
当初はオーストラリア一択だったんです。
ひねくれ者なぼくは、そんなブームに飲み込まれるのが嫌で
日本人の行きそうにない国を探していて見つけたのが
イスラエルのキブツという、初めて耳にする言葉。
中東戦争の傷があちこちに残っていて
道端に焼けた戦車や大砲が転がっているような国でしたが
周囲の不安をよそに
ぼくはイスラエルへ向かうと決めたのでした。
卒業、就職
話を大学時代に戻します。
旅にハマったそんなぼくも
3年生の終わりから就職先を探すことに。
当時も就職協定とかは存在したんですが、
外資系とかはそんなのお構いなしだったので
大学4年になった春にはあっさりと
アメリカのコンサルティング会社への
就職が決まっていました。
そのおかげで、周囲が就職活動をしている時期も
バイトと旅行に時間がつかえたわけです。まじラッキー。
コンサル会社は実に面白かった。
なにより天才級の奴らがゴロゴロしていて
すんごいペースで勉強させてもらえるし、
結構海外へも行かせてもらえる。
でも旅への欲求がすべて満たされるわけではありません。
そんなに旅が好きなら自ら旅のプロになっちまおうと
2年後には旅行会社への転職を決心します。
ついに旅行のプロとなる
ぼくの経験は当時の旅行業界でもなかなか異色でした。
旅行会社では徹底的にヨーロッパだけを扱い、
南はスペインから北はノルウェーまでの旅行ルート、ホテル、グルメなど
ヨーロッパの旅に関するあらゆる情報に精通していきます。
業界のデスティネーションセミナーや
新人の添乗員さんの講習会で講師をつとめるなどしているうちに
自他ともにヨーロッパのプロとして認められるようになりました。
念願の海外駐在 (1990年代)
7,8年後には希望がかなってロンドンへの駐在が決まり、
現地マネージャーとして受け入れ側に回ることになります。
日本=送客側
現地=受け入れ側
ですね。
宿の手配やバスの配車だけでなく
議員さんや企業の視察を手配したり
VIPやら有名人のアテンドしたり
新しいディスティネーションの開拓したり
結構好き放題やらせていただきました。
危機管理の現場も
そんな現地代表の業務のなかでも重要だったのが
万が一のトラブルが発生した際の危機対応です。
プロの添乗員さんが対応しきれない事案が発生すると
昼夜を問わずぼくの携帯電話が鳴るわけですね。
「パスポート無くした~」 とか
「バッグ盗まれた~」なんてのは日常茶飯事で、
帰国便の空港に向かうバスが事故ったとか
ホテルについたら30人の団体まるごとオーバーブックだとか
食中毒でツアー離脱とか
路上で心筋梗塞おこして救急車で運ばれたとか
事故、事件、病気など、生死に関わる事案まで
あらゆる緊急案件に対応しまくりました。
おかげで何が起こっても動じないメンタルが鍛えられたのです。
当時の自論は
【命さえあればなんとかなる】
このテーマだけで一冊の本がかけたんじゃないかと思ってます。
でも、これでいいのか?
そんな駐在員生活とかやっているうちに
五つ星のホテルとか
ビジネスクラスのフライトとかが
徐々に当たり前になってきちゃったんだけれども
ぼくの旅の基本はやっぱり、
地べたを這うようなバックパッキングにありました。
デラックスで快適な旅もいいけれど
人との触れ合いが多い旅のほうが、やっぱりおもしろい。
行く先々で新しい出会いがあって、
現地の生活に触れることができる。
旅を続ける。
人生は旅だ、旅こそ人生だ、なんて言いながら。
そんなことを続けているうちに
ある思いが大きくなって、
無視できない状態になってきちゃったんです。
~Pay it forward
20代の貧乏旅行で世界中の街でお世話になった恩を
まだまだお返しできてないんじゃないか?
ヒッチハイクで載せてくれた兄ちゃんが家に泊めてくれたり
老夫婦が自宅のパーティに招待してくれたり
結婚式に飛び入り参加したり
割礼の儀式に呼ばれたり
昼飯おごってもらったのなんて数え切れなくて
そうそう、
マジで小遣いくれた人もいた…
よっぽどみすぼらしく見えたんでしょうね…
そんなとき、
お礼をしたくても何もできなくて戸惑うぼくに
皆が口をそろえて言った言葉が
あなたができる時になったら、誰かにこうしてあげなさい
そう、
Pay it forward
だったんです。
Do something nice for someone
because someone else did something nice for you
(Longman)
そして、いま (21世紀)
そしていまぼくは、
海の見える町で
世界中から旅人が集まる温泉宿の
運営に携わっています。
毎年、およそ60か国から5000~6000人は来るかな
自分が旅へ出られる回数はすっかり減ったけれど、
まいにち旅人と触れ合いながら
ぼくの知らない国での出来事や
旅先での出会いのストーリーだったりを
うまい酒を交わしながら聞いています。
もちろん旅の相談や
困ったときのアドバイスは
あらゆる経験値を総動員します。
そうやってやっと、
Pay it forwardする側に立つことができました。
ひとり旅へ出ようぜ
そうやって世界中の旅人たちと毎日関わっていていると
どこからかぼくのことを聞きつけて
日本人のなかからも
ひとり旅準備中の若者や
バックパッカーにあこがれる女子やらが
何かと相談しにやってきます。
僕の引き出しの中にある経験や情報が
思っていた以上に役に立っているようなので
だったらもっと範囲を広げて
旅人たちを応援しようじゃないかとおもって立ち上げたのが
このサイトです。
バックパッカーだけじゃなく、
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旅に出たい、ひとり旅をしたいあなたにとって
少しでも役に立つ情報やアドバイスを
発信していきたいなと思っています。
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